できる事をやるしかない

アラフォー妻子持ち医師のなんとなく思っている事

健康についてはもっと本人の責任が重視されるべき

正月気分も抜けて病院の仕事も通常運転になってきました。

外来診療をしていると年末年始に不摂生したんだろうな、と思わせる患者さんが多くやってきます。運動不足で体重が増えた人、食べすぎて血糖値やコレステロール値が悪くなった人は本当に沢山いますが、年に一度の正月くらいは普段の食事制限を忘れて食事を楽しみたいという気持ちもわからなくはありません。まぁ、生きる死ぬの騒ぎになるようなことでも取り返しのつかないことでもありませんので、あまり厳しく注意はしていません。

 

ですが度を越して、元々心臓が悪いのに塩分を取りすぎて心不全になって救急車で運ばれる人、普段透析を受けていて水分量を制限されているのに、飲みすぎて苦しくなって搬送される人などは、流石に同情の余地がありません。

 

明らかに本人が気をつけるべきことを怠って、病状が悪化した時でも病院へいけば普段と変わらず診察を受けられます。医者から説教されたり嫌味を言われる事はあるでしょうが、必要な診察、治療は受けられます。

 

 

私は、今の医療制度って不公平だな、と感じています。
保険料は一定の割合で支払うのに、病院に頻繁にかかる人もいれば、ほとんどかからない人もいます。自分は医療の恩恵を受けていないのにお金だけは払っている方は不公平だと感じるのではないでしょうか。

 

病気や怪我は万が一、予期せずしてかかるものですから、今自分が幸運にも病院にかからずに済んでいるだけだ。いずれ自分だって保険料を払っている恩恵を受ける日が来るのだから、今、病気や怪我で辛い思いをしながら病院にかかっている人たちに思いやりの気持ちはないのか、狭量なやつだと思われる方もいるでしょう。それは全くの正論だと思います。ですが、今のままでは健康を損ないますよ、と事前に告げられていて、それでも自分を顧みず、案の定病気になった方に対してはどうお感じになるでしょうか?

 

 

今のままでは健康を損ないますよ、という状況のは高血圧、血糖値が高い、コレステロールが高い、太っている、喫煙している、で生活習慣病の患者さんか喫煙者と言っていいと思います。

職場や自治体の健診を受ける、自分で血圧・体重を測ることでこれらに該当するかどうかはすぐにわかります。

それをしない、もしくは注意を受けていても今は問題ないだろうと判断して治療していないのであれば、それはいつか病気になるかもしれないことをほったらかしにしているに他なりません。

 

健診を定期的に受けて、健診で異常が見つかったら病院にかかる、病院で治療が必要だと言われたら治療を受ける、最低限これだけはしないと自分の健康に対する責任を果たせていないと思うのです。

 

健診を受ける、治療を受ける、いくら健康に気をつけても病気になる事はありますし怪我をする事もあります。それは仕方のない事です。できることをした上でも患うのが病気であり怪我なのだと思います。それは本人の力ではどうにもできない不幸な出来事として、保険制度のもとで治療を受けるべきだと思います。ですが、そういった努力はせずに、自分の健康管理を怠って健康を害した場合も同じように保険制度のもとで治療を受けられるのは、健康に配慮している真面目な人たちに失礼じゃないかなと思うのです。

 

単に無関心で健康を害したわけではなく、仕事や家庭の事情で分かっていても治療に時間を割くことができないのだという方もいます。どこまでがやむなき事情なのかを判断するのは難しいですが、健康を害しても、自分の体を犠牲にしても優先すべき事ってなんなのでしょうか?それほど多くあるとは思えません。思いやりに欠けると言われるかも知れませんが、もし、よく考えた上で、自分の健康よりも他のことを優先したのであれば、病気になる事も潔く受け入れ、健康に配慮しなかったなりの処遇を受けるべきだと思うのです。健康を損なうという報いは受けているのですが、それを医療費の面で誰かの世話になるというのは、真面目に健康と向き合った人からすれば不公平にならないでしょうか。

 

日本の医療制度は多くの人が安心して生活できる重要な制度だと思います。ですがそれに甘えて健康管理がいい加減になっている人もいるような気がしてならないのです。収入は増えない、税金は高いという苦言はよく耳にします。税金が高い理由の一つは間違いなく医療費が高いことが関わっています。みんなが健康に気をつけて病気が減れば医療費負担も減り、ひいては税金の負担も減るかもしれません。

 

自分の体のこと、経済的な負担のことを考えてももっと健康に関心と責任を持って欲しいと思うのです。

 

 

どうして運動をしなくなった?

みなさんは今の生活で運動されてますか?

 

私は週に2−3日、たかだか10km走る程度のジョガーで、食べることと飲むことを我慢しないで体型維持するというわがままを叶えるためにジョギングしています。たかだかこの程度の運動でもなんとか目的は果たせています。

 

おまけの効果ですが、走ると頭と気分がスッキリします。走りはじめには仕事でのトラブル、近いうちに済ませないといけない面倒な用事など色々考えているのですが、そのうちだんだんと頭が空っぽになって足を動かす、息を整える、ペースを保つことだけに集中するようになり、最後には不思議とほとんどの考え事が「まぁ、なんとかなるか」と思えるのです。

 

 

健康と、より良い毎日のために、皆さんに運動を強くお勧めします。
今、高血圧、糖尿病、肥満などはどれも1000万人以上の患者さんがいると言われ、これら生活習慣病脳梗塞心筋梗塞、その他多くの病気の火種になります。運動をすればこれらを患う確率は下げられます。

 

それは分かっている、運動するかしないかならした方がいいに決まっている。
ですが、学校や仕事、家事や育児、忙しい毎日の中で、運動の時間はどうしても後回し、先送り、優先順位としては低くなってしまう方が多いのではないでしょうか?

 学校の勉強や仕事、家事育児には今日、今やらないといけない事が多く時間がない。少なくとも、今日運動しなくても、明日困ることはない、そういう生活の方がほとんどでしょう。

 

ですが、運動はもっと生活の中で重視しなければいけない活動だと思います。今、当たり前に思っている毎日は、健康でなければ体が丈夫でなければ急に失われてしまうかもしれないのです。

 

 

自分がいつ運動しなくなったのか振り返ってみると中学校でした。

 

学校にあがるまでは時間があれば外に内に動き回って遊んでいたと思います。

 

小学校では担任の先生が「1年間で校庭何周できる?」という目標を立ててくれたおかげで、暑い日も寒い日も「走るのってツラいなぁ」と思いながらも、学校につくと毎朝走ってました。小学生が純粋だからでしょうか、担任の先生が生徒をノせるのがうまかったのでしょうか、クラス中が朝はとりあえず走る雰囲気になっていて、やらない疎外感、罪悪感があってツラくても走っていました。もちろん、自分がたくさん走れた、早く走れるようになったという充足感もありました。

 

中学校に上がって、吹奏楽部に入った後からは体育の授業以外では運動をしなくなりました。吹奏楽では基礎体力、肺活量などは大事だと習いましたが、体力トレーニングをしても演奏が上手になる実感がなく、楽器の練習には時間を割きましたが運動はだんだんと疎かになっていきました。

中学生活後半以降は次第に進学、受験に重きをおくようになり、当然のように生活から運動の時間は無くなっていきました。

 

高校、大学とすっかり運動することはなくなり、医師になっても運動の機会はありませんでした。運動しなくても困らなかったですし、勉強すればテストの成績はよくなる、知識が増えれば仕事が捗る、勉強に時間を割いた方が利益を感じられることが多かったからです。

 

同じようにして学生生活、社会人生活の中で、運動をしても得した感じがしない、勉強や仕事は自分の利益になた感じがする、そんな価値観に変わっていった方は多いのではないでしょうか?

 

子供が大きくなる過程で、運動することがもっと褒められればこの価値観は変わるのではないかと思います。中学生、高校生のころ運動をしていて褒められることってありましたか?県内、全国でトップレベルの成績を出せるほどの人でなければ、運動は評価されないのではないでしょうか。多くの運動部も最終学年の夏ぐらいには引退して、受験勉強。部活の成績で推薦がもらえて進学できる人はほんの一握りで、結局は勉強が評価される学生時代だったと思うのです。

 

 

運動と健康は切っても切れない関係です。運動せずに健康でいられる人はほとんどいないはずです。病気はしないまでも、運動している人のほうが体力はあるはずです。
多くの人は生まれた時から健康で、運動をしてもしなくても若い時にはそれなりに健康でいられます。だから、若くて健康なときには「健康のために運動しよう」とは思わず、勉強、仕事を優先してしまうのでしょう。
年を取るにつれて、運動していなかった人は健康を損ないやすくなり、運動していた人は健康でいられる可能性が高くなります。健康を損なってから運動を始めようと心を入れ替えても、後遺症が残っているかもしれませんし、そもそも健康を取り戻すことは簡単ではありません。

 

 

私は医者になって酒の量が多くなり、結構太りました。そして仕事が多忙になって、酒を飲む暇もない時期に10kgくらい痩せて今の体重になりました。流石に10kg痩せると着ているもののサイズも合わなくなり全て買い替えることになり、もうこのサイズをまた変えることのない様にしようと思い運動をはじめました。きっかけは偶然でしたが、おかげで40才近い今でもそれなりに健康を維持しています。日々病気を抱える方と接していると、健康であることは非常に恵まれたことだと感じます。

 

高齢化社会と呼ばれるようになり、何となく70歳、80歳まで生きるのが当たり前に感じると思いますが、長生きしている人はそれなりに健康を維持できる生活をしています。健康に良いことをせず、健康に悪いことをしている人はまだ人生これからという時に病気をしたり体調を崩して、描いていた生活が続けられなくなります。

 

是非当たり前だと思っている健康のありがたみを考え、健康の維持には欠かせない運動の大切さを感じてほしいのです。

 

 

健康・長生きの価値

塩分のとりすぎは良くない
運動不足は良くない
太っているのは良くない
 
健康を維持するために気をつけることは多いです。
 
ですが、そもそも健康でなければならない、という決まりはありません。
 
医者は患者さんの病気を治す、病気を未然に防ぐ、健康な状態を維持する、なるべく長く生きられるために診療をしています。多くのひとは、病気よりは、健康なほうがいいとお考えでしょう。
 
いうまでもない、あたりまえのことをなぜ話題にするのか。
ある程度の年齢を過ぎると
「ぽっくり逝くなら、いつでも構わない」
「ボケたり、寝たきりになったりして周りに迷惑をかけてまで生きたくはない」
とおっしゃる方が多くなるからです。
それまでは、健康や長生きを良いことと思っていた方々も、いつかを境に良いタイミングで最期を迎えることをお考えになります。
 
いつ最期について考えるかは人それぞれでしょうが、多くは「人生の目標」を達成した後ではないでしょうか。
 
 
わたしの母親は57歳のときに、腎不全で亡くなりました。
その時、私はすでに腎臓内科の道を歩んでおり、血液維持透析を行えば母親がまだしばらく生きられることは分かっていました。
ですが、かねてから母親は「おまえ(私)が一人前の医者になれば後は望むものはない。」と言っていました。
 
母親が腎臓を悪くした原因は糖尿病で、私が高校生の頃には既に目の合併症を患っています。その頃はまだ私を育て上げる使命感から食事制限や運動療法を頑張っていました。私が大学を卒業し医師の道を歩み始める頃には合併症が進み、目もだいぶ悪くなり、足の感覚も鈍くなっており家の外にはあまり出なくなりました。
食べることとテレビドラマを見るのが好きな人で、私が医者になるのを見届けた後は食べるのを我慢したり、無理に運動したりしてまで体を気遣うことはなくなりました。
 
一度母親が入院した時に、面と向かって母親の意思を確認したことがあります。
「もう、自分の望みは叶ったから、この先は自由にしたい、それで死んでも思い残すことはない」と言います。
そんな母親に、制限の多い血液透析をしながらの暮らしを強いることは私にはできませんでした。そして次第に病状を悪くした母親は亡くなりました。
最期を迎える当日まで、家で好きなものを食べて、テレビを見て過ごしていました。本人にしかわからないことですが、それなりに幸せだったのではないでしょうか。
 
腎臓内科の医者が、自分の母親が腎不全で死ぬのを指をくわえてみていたのか、と非難される方もあるでしょう。まだ57歳でしたから、もう少し長生きさせてあげれば良かったのにと言う声もあるかもしれません。
ですが、すでに本人が望みを遂げたと言うのに、好きなことを我慢させて長生きさせるのは本人の尊厳を奪うように感じたのです。
 
 
長生きすることはそれ自体が良いことに思われがちですが、長生きすればそれだけ病気や怪我で健康を害する危険が増えます。その上で、どんなに健康に気をつけても人には必ず最期が訪れます。
 
早く目標を遂げられた人は60才で最期を迎えても納得のいく人生でしょう。
若ければ病気も体の不調を感じることも少なくて済むでしょう。
90才まで生きても思い残しが多ければ大往生とは思わないでしょう。
その上、年をとった分だけ病気も不調に感じることも増えるでしょう。
どっちがいい人生なのでしょうか。
私個人としては、子供の成人を見届けて、仕事を引退して5年くらい妻に恩返しができたら70前後で最期を迎えるのが幸せだろうな、と思っています。
 
健康でなければ長生きできない。
生きていなければ人生の目標をかなえられない。
 
健康=長生き=良いこと
漠然とこのような価値観が根付いているように思いますが、健康に生きることは人生の目標を達成するために必要な条件の一つでしかなく、健康でとにかく長く生きれば幸せということではないでしょう。
 
お金も一緒ですよね
幸せに暮らすためにある程度のお金は必要ですが、お金が多ければ多いほど幸せとは限らないですよね。
 
 
健康が大事なことは言うまでもありません。
それはあくまで、健康でなければできることもできない、人生の目標を叶えられないからで、健康や長生きそのものに大きな価値があるわけではないと思うのです。
たかだか40歳の小僧が偉そうに、とは自分でも思いますが、人の生死に日常的に関わっていると、健康の意味、長生きの意味を考えずにはいられないのです。そして、生きることそのものではなく、「何のために」と言うことを問わずにいられなくなるのです。
 

「◯◯は体に良い」より大事なこと。

「◯◯が体に良い」

と冠された記事やテレビ番組、多いですよね。

 

「玉ねぎで血液がサラサラになるって聞いたので、一生懸命食べてます」

「ヨーグルトって免疫力が強くなるんですか?」

など、日常生活で体に良さそうなことが診察室で話題になります。

 

私はテレビをあまり見ないので、知らないことを聞いてはなんとなくネットで調べてみる程度の知識しかないのですが、新しく出てくる健康に関する話題は「嘘ではない」程度に感じます。

 

玉ねぎにはアリシンという物質が含まれていて抗酸化作用により動脈硬化が予防できる、血栓症を起こしにくくなるとか、ヨーグルトを食べるといわゆる善玉菌の働きで免疫力が高まる、というのは事実だと思います。

 

ですが「動脈硬化を起こしにくくする、血栓症を起こしにくくする」ことに関してまず重要なのは、運動、適正体重の維持、血圧を適正に保つ、コレステロールを目標値に収めておく、たばこは吸わない、など極めて一般的なことです。

 

「免疫力を高めること」に関しても、基礎代謝を高める(運動する、入浴で体を温める)とか、自律神経を刺激する(規則正しい生活、運動)など、いわゆる健康的な生活が大前提です。

 

 

生活習慣病の治療中に、まだ十分体重も減っていないのにヨーグルトをいっぱい食べたり、あまり運動しないのに玉ねぎばっかり食べても、おそらく大した効果はないだろうと思います(そういう研究があるかどうかはわかりませんが)。

 

「◯◯は体に良い」

という話の多くは、大前提である運動、体重、血圧、コレステロール、たばこなどの、最低限必要な健康管理ができている人が、さらに健康を追求したい時には役にたつかもしれません。

学校のテストで言えば
まずは合格点を取ること=最低限の健康管理ができていること
できるだけ満点に近づく勉強をすること=玉ねぎとかヨーグルトとかを意識して食べること

なんだろうと思います。

 

「◯◯は体に良い」

と言われるものをとれば他はどうでもいい、というわけではありません。赤身肉に良質な蛋白が、青魚には良質な脂肪が、それぞれの食材にそれぞれの良い栄養が含まれているので、バランスよく食べればいいのだと思います。

 

結局のところ、変に意識しないで、それなりに普通の食事、生活をするのが健康にはいいのだと思います。もし「普通の食事って?」「普通の生活って?」というのがわからないのであれば、それはしっかり勉強する必要があると思います。

もっと健康に関心を

みなさんが健康について考えるときはどんなときでしょうか?
私は幸いこれといった病気がなく、健診を受けても前の日にお酒を飲み過ぎていなければ、特に異常が見つかることはありません。体型も標準的ですし、自分で感じる不調もありません。それなりに健康だと思います。
 
子供が生まれて、新居を構え、40を間近に控えたいま初めて、健康や自分が将来死ぬ時のことを考えるようになりました。学生の頃や妻と結婚した頃にはそんなことを考えることは全くありませんでした。
 
ですから他の人に偉そうに言えた立場ではありませんが、日々の診察では「若いうちから健康について関心を持って持ってください」と強く訴えたくなります。実際に若い方にも必要であれば余計なお世話とは思いますが、説教くさくお話しさせてもらっています。
 
 
なぜなのか。
 
どんなに気をつけていてもかかってしまう病気、避けられないケガはあります。
ですが、多くの病気は本人の無関心や不摂生が原因です。
10年20年と続く健康への不注意の積み重ねで生活習慣病や癌を発症します。
発症した段階で運良く診断がついたとして、どれくらいの方が生活習慣の改善や治療に関心を持つでしょうか。
 
診断された時点では、これといって困った症状もないでしょうし、途端に命が危なくなることはありません。特に病気だとは感じないでしょう。
今まで通りの生活できて特に困ってもいないのに「明日から○○を食べないようにしましょう」「毎日1時間ウォーキングしましょう」と言われて、よし頑張るぞ、となるでしょうか?
頭ではわかっても、なかなか実践できない、はじめは頑張ったけど長く続かないことが多いです。(もちろん、そういったことができる人は病院にこないですむことが多いのですが。)
 
働き盛りの方が会社の健診で生活習慣病を指摘されることは多々ありますが、仕事と健康を天秤にかけるとどうしても仕事を優先される印象があります。仕事して生活費を稼ぐ、家族を養う役割を担っているのですから、当然のことかもしれません。
朝早く仕事に出て、遅くに帰ってくる、運動の時間なんてどうやっても作れないという方もいるでしょう。もし、食事に気を使って、毎日運動して、となると、仕事を変えでもしなければ到底時間が作れない、そんな方もたくさんいるでしょう。病院でそういう事情を解消することはできません。ですが、健康を損なって仕事ができなくなってしまう方がいることも事実です。
 
 
20年も30年も続けた生活習慣や既に出来上がった生活環境を、「病気」と言われても急に変えられないのが現実です。ですから、生活習慣や生活環境は若い頃から良い状態にしておくべきだと思うのです。
 
 
いうまでもなく、健康は大切です。
その健康の下支えになるのが毎日の生活です。
言われずともそんなことはわかっていると思います。
でも、わかっていても、忙しい毎日のなかで健康について考えることはあとまわしになってはいないでしょうか。
 
健康のために何が必要なのか、何をすればいいのか、何はしないほうがいいのか、教えてもらったことはありますか?健康に関心がある人は、雑誌、テレビ、インターネットの記事などで色々と知識を得ているでしょうし、実践しているでしょう。ですが、仕事や生活が忙しくて、健康に関心を向ける余裕がない人は、健康への取り組みが後回しに、先送りになって、そのうち病気になってしまうでしょう。
 
これは関心の問題ですませて良いのでしょうか?
関心を持たなかった本人の自己責任なんでしょうか?
健康に関する知識はどんな人にも必要ではないでしょうか?
 
 
 
 
私個人は、せっかく義務教育が充実しているのだから、健康についての考え方をもっと学校で教えてあげるべきだと思っています。私は教育現場の実情に詳しくありません。教育現場にいらっしゃる方からは「学校でちゃんと健康に関する教育をしている」「教える事が多すぎて、今以上のことはできない」などの反論があるかもしれません。
 
もし、教えられる環境が整ったとして、「小学生に教えられる健康の話って何?」と問われれば、答えに詰まってしまいます。塩分やカロリーの話をしても難しすぎるでしょうし、太っているのは良くないなどと言えば、イジメの原因にもなりかねません。学校で教えられて、子供さんは興味を持ったとしても、実際に食事を用意するのはご両親でしょうから、親が忙しければ子供も親の生活スタイルに合わせるしかないでしょう。
 
中学生くらいになるとタバコに興味を持つ子供もいるでしょう。大人が「ダメ」ということに、わざと逆らいたい年頃もあるでしょう。法律に触れる事なのでダメには違いありませんが、そういう頭ごなしではなくて、自分が将来それで健康を損ねても構わないのかということを考えさせる必要があると思うのです。
 
健康への教育は学校だけで解決できることではないでしょう。
ですが子供が興味を持てば、親もそれを後押ししたいと思うかもしれません。
生活の中心になる家庭で、親も含めて健康への関心が高まれば、こんなに素晴らしいことはありません。
 
 
 
学校に通っている年の頃に健康への関心が低い理由の一つには「健康であっても、健康について詳しくても、周りから評価される事がない」ことがあると思います。
 
学校でテストの成績が良いことや、スポーツで活躍していること、何かのコンクールで入賞することなどは評価されますが、健康で評価されるのは「皆勤賞」くらいでしょうか。ですが、皆勤賞が将来に有利に働くことってあるんでしょうか。他の成績に比べると、評価が低いように思います。
 
 
本来、誰かに評価されるために「健康」を維持するのではありません。
ですが、勉強を頑張れば評価される、スポーツで活躍すれば評価される、賞をとれば評価される、小さい頃から「評価される」事に重きの置かれる環境で育つため、評価されづらいことの関心が低くなるのではないかと感じます。そのために健康への関心も低くなってしまうのではないかと感じるのです。
 
例えばもし、進学の時や進級の時に「健康でなければならない(身体測定や健診結果に異常があってはいけない)」という要素があれば、もっと健康に気を払うようになると思います(もちろん、生まれつきの持病や、やむなき病歴がある人には配慮が必要です)。
 
多くの方はもともと健康なので、健康になろう、と意識する機会は少なく、何かしらの不調や異常を感じてから初めて健康について考えると思います。
仮に、普段から健康を意識して色々取り組みをしても、より一層健康になったとは実感しづらく、効果を感じられないと思います。この努力って、意味があるのかしら?と感じると続けるモチベーションが維持するのはむずかしいかもしれません。
一方で、勉強はやった分だけ成績に反映されますし、運動はやった分だけ自分のパフォーマンスが向上するので、よし頑張ったな、次はもっと頑張ろうと、目標を立てやすいしモチベーションを維持しやすいように感じます。
 
一人暮らしを始めて親の有難さに気づくように、健康も当たり前すぎて有難さがわかりづらいのです。ですが健康を損なってから有難さに気づいても、もう元には戻らない、だからいま当たり前にある健康を大事にしようと教えて行くことが大切なのだと感じます。
 
 
学生の頃、国語、数学、英語、将来の進路に関わる勉強には多くの時間が割かれますが、それに比べて、自分の健康に関してはあまりに知識と関心が乏しすぎると思うのです。少なくとも病気になって初めて、医者から健康について教えられるというのでは遅すぎます。
 
高血圧は1000万人
糖尿病も1000万人
肥満は2000万人
 
と言われる時代です。
こんなに多くの方が病気なのはちょっとマズイと思うのです。
健康への関心の低さが原因だとしたら、医者にかかる前にもっと誰かが健康の大切さを知らせなければいけないと、切に感じるのです。
 
みなさんは健康について考えたことがありますか?

年のせい、なんでしょうか?

「最近、疲れやすいです。もう、70歳も過ぎてますし、年のせいですかね?」
患者さんから「年のせい?」と問われることがあります。
 
患者さんの本当の気持ちはわかりませんが、もう少し外出や家事の時にキビキビと動けたら良いなという願望、もしかしたら何かの病気の初期症状?という不安、が入り混じったなんとも絶妙なご相談だな、と感じます。
 
「疲れやすい」をきっかけに見つかる病気は様々で、調べてみても何も異常が見当たらない方から、甲状腺の異常、貧血、肺気腫心不全などなどの診断に至るケースもあります。検査で異常がないもしくははっきりとした異常がある場合は対応は簡単ですが、異常がないとは言い切れない場合が一番悩みます。
 
例えば、軽度の貧血が見つかったとしましょう。年を取れば血液を作る働きが弱くなって貧血になる方は多いです。一方で、鉄分やビタミンが足りない、胃や腸に病気がある、血液の病気があるなど一つ一つの可能性を考えるとかなりたくさんの検査をしなければなりません。血液検査、胃カメラ、大腸カメラ、CT検査なおなど行ってみないと、本当に病気ではないのか、自信を持ってお答えしづらいです。
これらのことを説明すると相談に来られたご本人も、そんなに大げさな話でもないので・・・と一歩引いてしまうことも多く、とりあえずもう少し様子をみます、とお引き取りになることも多々あります。
 
 
すでに診断のついている病気について考えてみても、年のせいかそうではないのか悩ましいです。
感染症、骨折、癌など多くの病気は若い方よりもご年配の方に多いです、年をとったから免疫力が落ちる、骨粗鬆症になる、細胞が劣化して癌になりやすい、これは事実です。では年をとればみんなそうなるのかと言えばそうとは限らない。当たり前の話ですが、年をとる以外にも病気になる原因が複数あります。
結局のところ、「年のせい」がどれくらいの割合で関わっているのかは判断できません。
 
医者の立場からすると、あれこれと検査を勧めるほどの状態とは感じない、でも十分調べなかったせいで病気の発見が遅れたというのは避けたい。
 
最近では病気を扱ったテレビ番組などを見て、自分も思い当たる症状があるから心配だ、検査してほしい、といらっしゃる患者さんも多いです。
医者が診る分には病気の心配はない、検査は必要なさそうだと説明しても納得してもらえないことがあります。かといって検査しないで万一あとから病気が見つかったりすると、あのとき調べてくれていれば!と揉め事になるかもしれません。
とりあえず検査して済む話なら、してしまったほうがわだかまりもありません。
(ただ、こうして患者さんの要望に応えて、必要性の低い検査をどんどん行ってしまうと国の医療費はかさみます。その辺の苦悩はまた別の機会に。)
 
結局のところ、調べるだけ調べて何もなければ年のせいなのかもしれない、と説明することにしています。もちろん、検査を望まない方にはしませんけれども。
 
 
病気じゃないですよね?年をとればだいたいみんなこんな調子ですよね?と安心を求めている方には、最低限の検査をしていただいて「多分病気ではないと思いますよ」と心配をとってあげる。
この調子の悪さは何かの病気なんじゃないか?と感じておられる方には十分な検査を行って、病気なのか病気でないのかはっきりさせる。
 
 
この辺の空気を読むとでも言いましょうか、「年のせい」に含まれる、真意を汲むのもかかりつけ医、主治医の力量なのかなと偉そうにも思っております。
 
年のせいかどうかは別にして、皆さんが病院に心配事があって受診されるときは、心配ないと不安を解消したくて行くのか、具体的に何か調べてほしいことがあるのか、率直に相談されたほうが、相手の先生も良く対応してくれるだろうと思いますよ。(病気について大して知りもしないくせに生意気だ!と怒る先生は、今は少ないと思います。)
ご参考になれば幸いです。

主治医と呼ばれるからには

「主治医(しゅじい)」と聞くとどんなイメージをもたれますか?
自分の治療を担当してくれる先生、でしょうか。

医学は日進月歩、一人の医者のチカラには限界がありますので、タッグを組んで知恵を出し合って治療に当たります。その時中心となるのが主治医といった感じでしょうか。患者さんと一番接する機会が多い先生ですね。

ですが、主治医によって治療の方針や内容が大きく変わることはありません。肺炎と診断されれば誰が主治医でも同じように抗生物質を使った治療になりますし、血圧の治療であれば使う薬も、どこまで血圧を下げるのかなども主治医によらずほとんど同じになると思います。

もちろん、専門性の高い病気の診断・治療や、手術の関わる治療は主治医毎の経験・技量の差はあるかもしれませんが、自分の手に負えないと思ったものをあえて専門科に紹介せずに自分で治療することはありませんし、専門の先生が集まる病院であれば、やはり主治医が誰かによらず同じ治療方針になるでしょう。


では、誰が主治医でもいいのかと言えばそんなことはありません。

私が思う主治医の役目は
「患者さんの人生のマネジメントを手伝うこと」
だと思います。

例えば、旅行に行くときにガイドさんがいるツアーに参加すると、自分に予備知識がなくても、名所、オススメの体験を案内してくれますね。準備不足で個人旅行をすると「あのスポットも見てくればよかった」「こんな体験ができるところがあったのか」などと思い残しがあるかもしれません。

病気については主治医がガイドさんのような役目をすると思っています。
「この病気は将来こんなことが起こる」
「この治療にはこれぐらいの時間がかかる」
患者さん本人が意識していない、これから先のことまで見通して治療方針を立て、後から「あの時にそうだとわかっていれば!」と後悔のないように治療方針を相談出来る相手が主治医の一番の役目だと思います。


若い方でもともと元気な方が病気を患った場合、よほど特殊な事情、もう手のつけようの無い進行したガンとか、今の段階で治療法の無い難病などを除けば、できうる限りの治療を行うのが当たり前だと思います。

ご年配で余病が多く、この先どの病気が命に関わる問題になるか予想がつかないような方だと治療方針に悩みます。
例えば80歳の方で、心筋梗塞の後遺症ですでにかなり心臓が弱っている方が、ガンを患っていることがわかった。ガンそのものは治療できる状態だったので頑張って手術した。治療で体力を消耗したけれども、リハビリを頑張って1ヶ月かけて退院にたどり着いた。その2ヶ月後に心臓が悪化して心不全で亡くなった。と言うことは珍しくありません。

ガンの手術の負担が大きすぎて心臓が、体が治療に耐えられなかった、退院までたどり着かなかったと言うのであれば治療方針が間違っていたと思われますが、そうではありません。
おそらくガンは治療しようがしまいが、同じ時期に心臓が限界を迎えて最期を迎えた可能性が高いと考えられます。だとすれば、苦労してガンの治療をする必要はなかったのかもしれません。

もし、主治医が「治療頑張りませんか?」といえばそうした方が良い様に感じるでしょうし、「これは慎重に考えた方が良いですよ」といえば、治療を思いとどまるかもしれません。


ご高齢の方、余病の多い方の場合は、今そこにある病気を治すか治さないかと言う考え方ではなく、どう付き合うか、を考える必要があります。
その病気が命取りになるのであれば治療を考えますし、そうで無いのならあえて手を出さないでそっと見守るのも一つの治療方針だと思います。

ですが、患者さんやご家族からすれば、病気は治した方がいいと思うもの。それをこちらの経験も踏まえてどうするのが一番納得できるのか、予想される可能性を考えた上で決めるべきだと思います。


多くの患者さんは病気に関して素人で未経験者です。
たかだか40そこそこの医者でも、人生の先輩である患者さんから「先生」と呼ばれるのはなぜか。医者が患者さんよりも病気やその行く末について知識と経験があって、納得できる選択の手伝いができるからなのだと思います。

医者は同じ病気で色々な経験をされた他の患者さんの事をたくさん知っています。
不幸な目にあった方も少なくありません。
次に会う、同じ病気の方には、できれば辛い思いをして欲しくありません。
治る、治らない、治療に取り組む取り組まないは別として、病気について「知らなかった、知っていたらやりたかった(やりたくなかった)」という事だけは無いように、主治医として患者さんにお話したいと思っています。