できる事をやるしかない

アラフォー妻子持ち医師のなんとなく思っている事

小さな保育園の向かいに立つ大きく立派な納骨堂

私は駅から徒歩10分程のマンションに住んでいます。

それなりのベッドタウンで、駅前にはスーパーや飲食店、少し離れるといくつかの学習塾、やたらとたくさんの美容室があり、夜10時くらいまでは人足もそれなりにある活気のある街です。

駅前でにぎわう通りの外れに、小さな保育園があります。雑居ビルの一階部分で、しっかりと観察した事はありませんが、コンビニくらいの広さでしょうか。仕事が早く終わった日の帰りには、お母さんと子供が手を繋いで家路につく愛らしい姿を見ることがあります。

 

数ヶ月前、その保育園の通りの向かいにたいそう大きく立派な納骨堂が建てられました。なにせ駅前の賑やかな地域ですから近隣住民の方からは、なぜこんなところに納骨堂を建てるのかと、反対の声もあったようですが、結果的には建ちました。向かいに建つ保育園の敷地の数倍はあろう敷地で、3、4階建てのマンションと同じくらいの高さなのです。

 

私の通勤経路なので、この数ヶ月間その通りを目にしていましたが、最近その景色を見るとなんとも言えない塞いだ気持ちになるのです。

もう、この世を去った人たちがこんなに立派な建物に弔われて、これから国を担う子供はこんなに狭いところで毎日過ごしているのだなぁと。なんとなく、日本の未来を感じるのです、これじゃ子供が増えるわけもないのです。

 

私は医者という仕事柄、日常的に人の最期に立ち会います。患者さんの多くはそれなりにご高齢で、兼ねてから自分に病気があることも分かっていて、いよいよ病状が厳しくなった時にも「もう十分長生きした」「今以上に治療の手を施してもらって長生きしたいとは思わない」など自分の最期を受け入れているかたがほとんどです。私には言わないだけかもしれませんが、この世に未練があったり、生前叶えられなかった願いをあの世では遂げたいと言うような願望を仰る方はほとんどいません。

 

生きた証、生前の苦労や活躍を労う、敬う、死後の安らぎを願う気持ちをないがしろにする訳ではありませんが、もし強く故人の冥福を願うのであれば、家に質素でも仏壇を置いて毎日手を合わせる方が、立派な納骨堂に納めるよりも、供養になるのではないかと思うのです。立派な納骨堂に納めました、年に数回お参りします、あとの供養は納骨堂にお任せします、というのは軽薄に思えるのです。

 

うまく表現できなくてもどかしいのですが、納骨堂が立派である必要がないと言いたいのではありません。この世での活躍を終えた故人が、こんなに手厚く弔われる事に対して、これから国を支えていくであろう子供達の学び舎である保育園や幼稚園は随分と扱いが悪いのではないでしょうか。

 

同じ場所にかたや大きな立派な納骨堂、かたや雑居ビルの一角にこじんまりとした保育園、経済やお金の事に詳しい訳ではありませんが、どう考えても納骨堂の方がお金が儲かっていて、保育園は利益が上がってないように見えるのです。葬儀ビジネスの良し悪しは問いませんが、それ以上にもう少し子供の成長をサポートする業種の金回りがよくても良いのではないでしょうか。

 

どんなに手厚くしても亡くなった方にこれからの国をよくしていく力はありません。そこに力を入れて経済効果が上がる仕組みよりは、これからの将来を担う子供に関わる業種が経済的にも人的にも充実して、関わりたい、よくしていきたいと思う人が集まってくれると良いのに、と思うのです。