できる事をやるしかない

アラフォー妻子持ち医師のなんとなく思っている事

健康・長生きの価値

塩分のとりすぎは良くない
運動不足は良くない
太っているのは良くない
 
健康を維持するために気をつけることは多いです。
 
ですが、そもそも健康でなければならない、という決まりはありません。
 
医者は患者さんの病気を治す、病気を未然に防ぐ、健康な状態を維持する、なるべく長く生きられるために診療をしています。多くのひとは、病気よりは、健康なほうがいいとお考えでしょう。
 
いうまでもない、あたりまえのことをなぜ話題にするのか。
ある程度の年齢を過ぎると
「ぽっくり逝くなら、いつでも構わない」
「ボケたり、寝たきりになったりして周りに迷惑をかけてまで生きたくはない」
とおっしゃる方が多くなるからです。
それまでは、健康や長生きを良いことと思っていた方々も、いつかを境に良いタイミングで最期を迎えることをお考えになります。
 
いつ最期について考えるかは人それぞれでしょうが、多くは「人生の目標」を達成した後ではないでしょうか。
 
 
わたしの母親は57歳のときに、腎不全で亡くなりました。
その時、私はすでに腎臓内科の道を歩んでおり、血液維持透析を行えば母親がまだしばらく生きられることは分かっていました。
ですが、かねてから母親は「おまえ(私)が一人前の医者になれば後は望むものはない。」と言っていました。
 
母親が腎臓を悪くした原因は糖尿病で、私が高校生の頃には既に目の合併症を患っています。その頃はまだ私を育て上げる使命感から食事制限や運動療法を頑張っていました。私が大学を卒業し医師の道を歩み始める頃には合併症が進み、目もだいぶ悪くなり、足の感覚も鈍くなっており家の外にはあまり出なくなりました。
食べることとテレビドラマを見るのが好きな人で、私が医者になるのを見届けた後は食べるのを我慢したり、無理に運動したりしてまで体を気遣うことはなくなりました。
 
一度母親が入院した時に、面と向かって母親の意思を確認したことがあります。
「もう、自分の望みは叶ったから、この先は自由にしたい、それで死んでも思い残すことはない」と言います。
そんな母親に、制限の多い血液透析をしながらの暮らしを強いることは私にはできませんでした。そして次第に病状を悪くした母親は亡くなりました。
最期を迎える当日まで、家で好きなものを食べて、テレビを見て過ごしていました。本人にしかわからないことですが、それなりに幸せだったのではないでしょうか。
 
腎臓内科の医者が、自分の母親が腎不全で死ぬのを指をくわえてみていたのか、と非難される方もあるでしょう。まだ57歳でしたから、もう少し長生きさせてあげれば良かったのにと言う声もあるかもしれません。
ですが、すでに本人が望みを遂げたと言うのに、好きなことを我慢させて長生きさせるのは本人の尊厳を奪うように感じたのです。
 
 
長生きすることはそれ自体が良いことに思われがちですが、長生きすればそれだけ病気や怪我で健康を害する危険が増えます。その上で、どんなに健康に気をつけても人には必ず最期が訪れます。
 
早く目標を遂げられた人は60才で最期を迎えても納得のいく人生でしょう。
若ければ病気も体の不調を感じることも少なくて済むでしょう。
90才まで生きても思い残しが多ければ大往生とは思わないでしょう。
その上、年をとった分だけ病気も不調に感じることも増えるでしょう。
どっちがいい人生なのでしょうか。
私個人としては、子供の成人を見届けて、仕事を引退して5年くらい妻に恩返しができたら70前後で最期を迎えるのが幸せだろうな、と思っています。
 
健康でなければ長生きできない。
生きていなければ人生の目標をかなえられない。
 
健康=長生き=良いこと
漠然とこのような価値観が根付いているように思いますが、健康に生きることは人生の目標を達成するために必要な条件の一つでしかなく、健康でとにかく長く生きれば幸せということではないでしょう。
 
お金も一緒ですよね
幸せに暮らすためにある程度のお金は必要ですが、お金が多ければ多いほど幸せとは限らないですよね。
 
 
健康が大事なことは言うまでもありません。
それはあくまで、健康でなければできることもできない、人生の目標を叶えられないからで、健康や長生きそのものに大きな価値があるわけではないと思うのです。
たかだか40歳の小僧が偉そうに、とは自分でも思いますが、人の生死に日常的に関わっていると、健康の意味、長生きの意味を考えずにはいられないのです。そして、生きることそのものではなく、「何のために」と言うことを問わずにいられなくなるのです。